しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。 ルカ4章30節
ナザレの人々のイエス様に対する不信仰について語っている箇所です。
信仰
その人々の不信仰に直面して、イエス様は、「信仰」、「ほんとうの信仰とは」ということを語られました。信仰、それは、しるしを見て信じるのではなく、しるしを見ないで語られた言葉を信じて従うことです。ヘブライ人への手紙11章1節に、「信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することです」と言われている通りです。
不信仰
信仰とは、しるしを見なくても、神のことばを信じて従うことです。神のことばに身を委ねることです。では、不信仰とは何か。それは、その逆ということができます。しるしを見ないと信じないこと。見えるものにとらわれて、信じようとしないこと。それが、不信仰ということです。けれども、これは、一人ナザレの人々だけの問題なのでしょうか。わたしたちも、ナザレの人々と同じような不信仰の種をもっているのではないでしょうか。
通り抜けて行かれるイエス
そのようなナザレの人々の間をイエス様は通り抜けて行かれました。けれども、この通り抜けて行かれたというのは、実は、逃げおおせたということではありませんでした。ナザレの人々を見捨てて、去って行かれたということではありませんでした。イエス様は、使命を帯びて、着々と自分の歩みを進めておられたのでした。その行き着く先はどこか。それは、十字架でした。
「神様が、~のことをして下さるなら」ということに留まっているわたしたち。にもかかわらず神様が愛を表して下さった、それが、十字架のできごとです。その十字架の愛を受けて、「神がまず愛して下さったから」と、神様を信じ、従う。それが、キリスト信仰です。もっと言えば、キリストの十字架の愛の招きに応えて、不信仰に死に、神様が与えて下さる信仰に生きる。それが、キリスト信仰なのです。
(前川隆一牧師)