心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。 Ⅰヨハネ3章20節
「神への信頼」と表題がつけられている箇所です。
マグニフィカート
わたしたちはともすると、自分の心を大きくします。自分の良心を大きくします。心に責められるか、責められないか、ということにこだわります。けれども、神は、わたしたちの心よりも大きい方なのです。神は、わたしの心より大きいお方というとき、わたしたちが連想する、それは、「マグニフィカート」、「マリアの賛歌」です。ルカ1章47節で、「主をあがめ」と言われている、それが、ラテン語では、「マグニフィカート」ということばなのです。「主をあがめる」それは、神を大きくすることです。そして、それが、まさに、礼拝のときなのです。
許しではなく赦し
「ゆるし」ということば。それに漢字をあてるのに、許可の「許」と赦免の「赦」という二つの漢字があります。神様がイエス・キリストの十字架を通して、わたしたちをゆるして下さったというとき、それは、「許可」のゆるしではなく、「赦免」のゆるしです。許可のゆるしではなく、赦免のゆるしでもって赦し愛して下さったキリストの十字架の愛を見上げることを通して、神本来の大きさを回復することができるのです。
信頼
神を礼拝することを通して、わたしたちは神本来の大きさを回復することができます。許可のゆるしではなく、赦免のゆるしでもって赦し愛して下さったキリストの十字架の愛を見上げることを通して、神本来の大きさを回復することができます。そして、そのことを通して、神様に信頼する信仰をわたしたちは養って行くことができるのです。わたしたちが、信仰において成長するというとき、一方において、「知識」において成長するということがたいせつです。とともに、信仰において成長するというとき、この「信頼」、神に対する「信頼」において成長するということがたいせつです。
(前川隆一牧師)