やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った。「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。」          ヨブ3章1~3節

自分が生まれた日を呪うヨブのことばです。

議論の意味するところ
今日は、ハンバーガーの具材の部分、ヨブと友人たちとの議論の部分を取り上げます。第一に議論の意味するところということについて考えます。わたしたちは、信仰をもったとしても、「なぜ」という問いから解かれるということはありません。でも、逆に、この「なぜ」という問いを通して、人生の意味を考えるのです。いや、一般的な人間ということではなく、このわたし自身が何のために生かされているのかということを深く掘り下げて考えるのです。そこに、議論の積極的な意味があります。とともに、議論ということが不毛な議論、議論のための議論となってしまう。それは、お互いに、自分の主張を絶対化してしまうとき、議論は、不毛な議論、議論のための議論となってしまうというのです。

原因
では第二に、ヨブと友人たちとの議論が、不毛な議論、議論のための議論となって行った。そのいちばん大きな要因は何であったのでしょうか。それは、ヨブが、度重なる試練によって、プライドがズタズタになっていたからでした。自尊心が大きく傷ついていたからでした。心にゆとりがなくなっていたからでした。

仲裁者
では第三、そのような中で、ヨブは、深いところで何を求めていたのでしょうか。それは、ヨブ記9章33節です。「あの方とわたしの間を調停してくれる者 仲裁する者がいるなら」そうヨブは、言っています。これは、やがて来られる救い主キリストを信仰の眼をもって見上げようとしたヨブの信仰ということができます。ヨブは、自分の生まれた日を呪いましたが、神ご自身を呪うということはありませんでした。ヨブが踏みとどまることができた。それは、このようなヨブの信仰によっていました。わたしたちは、ヨブが見ることができなかったキリストの救いを見る者とされています。キリストを信じる信仰によって、神の子とされているという正しいプライドを回復させていただき、正しく人生の問いを深めて行く。そのような一年と主に導いていただきましょう。

(前川隆一牧師)