イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。      マルコ4章39節

今日の福音書は、ガリラヤ湖上において、イエス様が嵐を静められた奇跡のできごとです。

人生の嵐
第一に、弟子たちが経験したような嵐をわたしたちも経験します。「人生の嵐」ということに心を留めたいと思います。信仰をもっていようといまいと、人生の嵐はわたしたちを襲います。けれども、その後、わたしたちがその嵐にどのように対処するか、という点において、生き方は大きく違っていきます。いやむしろ、嵐のときに、わたしたちが何をよりどころとしているかということの真価が問われるのです。その嵐を、イエス様とお会いする機会としていきたいと思います。

休んでおられる主イエス
第二にその嵐のただ中で、イエス様が休んでおられた、昼寝をしておられた、ということに心を留めたいと思います。弟子たちがイエス様のもとへ行ってみると、肝心のイエス様は艫の方で枕をして休んでおられました。それは、イエス様が罪は別として、わたしたち人間が経験する重荷、痛み、戦いをわたしたちと同じように経験して下さる救い主であるということを指し示しています(ヘブライ人への手紙4章14~15節)。それだけではありません。それは、イエス様の十字架のできごとを指し示しています。

嵐を静める主イエス
第三に、イエス様が起き上がって嵐を静められたこと、嵐を静める主イエスということに心を留めたいと思います。弟子たちは、確かに助けを求めました。けれども、イエス様が自ら嵐を静めて下さるなんて期待していませんでした。しかし、イエス様は、ご自身、天と地を支配する神として、主として、嵐を静められました。イエス様が疲れ果てて休んでおられるお姿、それは、イエス様の十字架のできごとを指し示していました。とするなら、天地の主として、嵐を静められたイエス様、それは、イエス様の復活を指し示していました。この主イエス様に信頼し、与えられた使命を果たして行く、そのようにわたしたちは招かれているのです。

(前川隆一牧師)