マルコ7:1-23 「人を汚すものはどこから?」
 
イエスさまに難癖をつけようとした人たちの指摘は、イエスの弟子が汚れた手で食事をしたこと。その根拠は彼らが固く守っていた「昔の人の言い伝え」に違反している。これは純粋に宗教的規定でした。レビ記11章では生活の中で<聖・汚れ>を教えるため食物も聖・汚れがあるとの規定を背景にしている。

信仰熱心なユダヤ人は旧約聖書の律法を忠実に守ろうと、数々の実践のしかたを、次世代に書き遺した。それは旧約聖書に基づく生き方、民法、刑法、教育、家族・・・あらゆる分野にかかわる内容で、旧約聖書のことばを守ろうと、純粋に信仰熱心で、にこまかく規定したもの。

イエスさまはイザヤ書29:13の預言を引用して、その実相を照らされた。「人間の戒めを教えとして教え・・・あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」。彼らにとって信仰を生きるとは、昔からの言い伝えを守り形が整っているかが意識され、聖書の教えでなく「人間の言い伝え」が根拠だった。

現代のクリスチャンにも起こりうる現象。純粋な心で始めた礼拝態度も長年の継続のうちに、形は整っているが霊性は鈍く、神のことばで心を燃え立たせられる経験が少なくなる。

もう一つのイエスさまの指摘は「父と母とを敬え」出20:12を守っていないと。父母を助けることのできる金銭も、「コルバン」と宣言すればその義務をのがれた。しかも「コルバン」を後で宮に収めないで自分ために使った。13節「これと同じようなことをたくさん行っている」。信仰生活が形式主義になり習慣的になると、内面性がおろそかになり、内面(霊性)は神さまから遠く離れる。その結果は「神のことばをないがしろに」している。

今を生きるクリスチャンにも同じ危険がある。聖書のことばを、自分の都合のいいように無視したり後でやります。イエスさまの勧められる悔い改めの勧めを先延ばしする。その本質は13節「受け継いだ言い伝えで神のことばを無にしている」こと。

きょうのテキストの中心思想は、「汚れ」です。イエスさまは2、5、15、15、18、23節でこれに言及。もちろん不信仰、不道徳もみことばを無視している態度だ。しかし熱心な信仰者に忍び寄るその罪は人から出て人を汚す、そしてみことばを汚すまでに至ると警告された。

たしかに、長年の信仰生活を続けているあいだに、いつのまにか、形は整っているが、心が冷えて、神さまのことばに反応・応答がにぶくなっていることがある。神のことばを無視して汚さないように、わたしの心が素直に、神さまのみことばをそのまま信じて歩めますようにと祈って、この礼拝堂から、派遣されて行きましょう。

(有木義岳師)