御覧下さい、僕が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。
詩編123編2節
福音書は、「ナザレでは受け入れられない」「十二人を派遣する」そう表題のつけられているところです。
どんなところか
わたしたちが遣わされているのは、どのようなところなのか。また、神様から遣わされるということにどんな意味があるのか、ということを福音書から学びたいと思います。そして、第三にどんな心で遣わされた者として生きるようにと招かれているのか。そのことを、詩編を通して学びたいと思います。
第一に、どんなところへとわたしたちは遣わされているのか。わたしたちが遣わされる、それは、人々の不信仰、不信頼が支配する世界です(1~6)。
どんな意味が
では第二に、わたしたちは、そのような不信仰、不信頼が支配するこの世に、何のために遣わされて行くのでしょうか。それは、そこに、わたしたちが遣わされる使命があるからです。イエス様は、故郷の人々の不信仰に直面しながら、それはそれとして、付近の村々において、できることをして行かれました(6~7)。わたしたちも、人々の不信仰、不信頼のできごとに直面します。けれども、残りの民を神様は備えて下さっています。種を蒔かなければ、芽は出ないのですから、福音の種を蒔き続けるように。また、土地を耕す段階であるなら、そのことを愛を込めて、精いっぱい行うように。そのように、わたしたちは、召されているのです。
僕が主人の手に目を注ぐように
では、わたしたちは、どのような心で、心の姿勢で、遣わされたところで歩んで行くようにと召されているのでしょうか。わたしたちは、キリストの十字架によって、自由な者とされました。でも、その自由を、愛の故に、愛すること、仕えることのために用いて行くよう召されているのです。その点において、わたしたちは、僕が主人の手に目を注ぎ、はしためが女主人の手に目を注ぐように、神に目を注ぐようにと召されているのです(詩編123編2節)。
(前川隆一牧師)