いかに幸いなことか 主を避けどころとする人はすべて。 詩編2編12節
詩編1編が、田園風景的、牧歌的であったのに対して、詩編2編は、天上の主に対する地上の王たちの挑戦という壮大な詩編、宇宙的な詩編です。
主
と言いながら、この詩編2編も、その最後のところは、「いかに幸いなことか 主を避けどころとする人はすべて」と結ばれています。では、「主を避けどころとする」という「主」とはどのようなお方なのでしょう。それは、「天を王座とする方は笑い 主は彼らを嘲り 憤って、恐怖に落とし 怒って、彼らに宣言される」と言われているように、神に挑みかかって来る者たちをあざ笑い、裁きを下されるお方です(4~5)。そのような神の裁きということと「主を避けどころとする」ということとは、どのようにつながって行くのでしょうか。
避けどころとする
2節で、「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して 主に逆らい、主に油注がれた方に逆らうのか」と、主に逆らうとともに、「主に油注がれた方に逆らう」ということが言われています。そのような神様に油注がれたお方に、人々が挑みかかったできごと、それはまさに、あの十字架のできごとでした。神様は、文字通り、鉄の杖を振り下ろされました。裁きを下されました。けれども、それは、嘲り、罵った人々の上ではなく、油注がれたお方キリストの上に下されました。ですから、「主を避けどころとする」、それは、この十字架で死んで下さったキリストを避けどころとするということを意味しています。
新しい視点
さて、最初に触れましたが、詩編2編は、壮大な詩編、宇宙的な詩編と言うことでした。そういう意味で、この詩編2編は、わたしたちに鳥瞰的な視点、別な視点を与えてくれる詩編と言うことができます。信仰、それは、わたしたちに別の視点、新しい視点を与えてくれるものです。そして、それが、「主を避けどころとする者の幸い」と言うことができます。
(前川牧師)