「ところが、女が答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます。』」                  マルコ7章28節
 

「シリア・フェニキアの女の信仰」と表題のつけられているところです。

論争物語
この箇所、ある人は、イエス様の論争物語の一つと数えます。では、どういう点で、この箇所が、イエス様の論争物語であるのでしょうか。24節の「人々に気づかれてしまった」という部分、以前の口語訳聖書では、「隠れていることができなかった」と訳されていました。イエス様は、ご自分を隠そうとなさいました。彼女の信仰、それは、神が隠れておられるように思える。そんな試練の中を通るとき、どのように、イエス様に求めて行けばよいのかを教えてくれる、一つの指針ということができるかも知れません。

イエス様に勝つことができた信仰
第二に、論争物語は論争物語でも、このできごと、それは、唯一イエス様がお負けになられた論争物語です。逆に言えば、この女性は、イエス様に勝つことができたのでした。イエス様に勝つことができたこの女性の信仰というのはどのようなものだったのでしょうか。それは、けんそん、かつ、大胆な信仰でした。彼女はけんそんにイエス様に願いました。それとともに、「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパン屑はいただきます」と、大胆に、主に願ったのでした。

どこから?
では、その信仰、それは第三に、どこから来たものなのでしょうでしょうか。シリア・フェニキアの女性の信仰、それは、十字架へと歩もうとしておられるイエス様によって、与えられたものでした。彼女の信仰、それは、生来のものではなく、彼女がイエス様と出会い、そのかかわりの中で与えられたものでした。

わたしたちもそうです。まず、恵みがあって、それから、信仰が来るのです(エフェソ2章8節)。イエス・キリストの十字架と復活という福音の事実があり、その事実を告げるみことばと説教を聴くことを通して、わたしたちも信仰を与えていただくことができるのです。

(前川隆一牧師)