わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。生涯わたしは主を呼ぼう。                 詩編116編1~2節
この詩編を口ずさみながら、弟子たちがゲッセマネに向かって行ったとするなら、弟子たちがつまずいてしまった詩編。とともに、そこに記されていることはほんとうだったと後から確認することとなった詩編、それが、116編です。

自分の思いを受け留めてもらうことを通して
詩編116編1~2節、「わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。生涯わたしは主を呼ぼう。」自分の力や熱心さによって、イエス様を愛することができる。イエス様に従うことができる。そう思っていた弟子たちの信念、それは、もろくも崩されてしまいました。けれども、そうではない。「主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。」弟子たちは、自分の思いを受け留めてもらうことを通して、主を愛する者とされて行ったのでした。

主が、憐み深く、情け深いお方であると味わうことを通して
第二に、主が、憐み深く、情け深いお方ということが理解できたとき、弟子たちは、主を愛する者とされて行ったのでした(詩編116:5)。弟子たちは、何よりも、イエス様が苦しみを受ける必要があった、ということを理解していませんでした。その弟子たちに対してイエス様がなさったこと、それは、みことばを解き明かすということでした。そのことを通して、主は、ほんとうに憐み深いお方ということが理解できたとき、弟子たちは、主を愛する者とされて行ったのでした。

せずにおれない者と
第三に、主を愛する、すなわち、何かをせずにはおれない。二人の弟子は、そんな思いが与えられて行きました。詩編116編12節、「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。」二人の弟子は、ともに歩んで下さったお方が復活の主であったと分かったとき、何かをせずにはおれない。そんな思いが与えられたのでした。それで、とぼとぼとした足取りで帰って来たエマオまでの道のり、それをもう一度エルサレムへと取って返すのでした。それは、他の弟子たちに、主は確かに復活されたと伝えるために、でした。

(前川隆一牧師)

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