命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。 詩編23編6節
ヨハネ9章のイエス様によって目をいやしていただいた男性にとって、主はどのように羊飼であったかという視点で、詩編23編を学びたいと思います。
伏させていただく経験
2節、それが、この男性が最初に経験した経験でした。「主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い」新共同訳聖書では、「青草の原に休ませ」となっていますが、原文を直訳すると、「伏させる」という意味のことばが使われています。イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」そう言われましたが、まさに、イエス様のもとに伏させてていただく、休ませていただく。それが、この男性にとっての最初の経験でした。
わたしの主
次に、この男性が経験した、それは、自分をいやしてくださったお方とわたしという関係が深められて行くという経験でした。詩編23編には、「主」ということばが4回、途中から「あなた」に代わって3回、そして、「わたし」ということばが何と15回も出て来ます。そのように、「わたしの主」、あるいは、「わたし」と「あなた」という深い信頼関係がうたわれている。それがこの詩編23編です。イエス様によって目をいやしていただいたこの人は、短い期間の中で、自分をいやしてくださったお方とわたしという関係が深められて行く経験をしました。
生涯、そこにとどまるであろう
第三に、彼が経験した、それは、詩編23編6節の経験でした。詩編23編には、実は、二つの結論があります。主のわたしに対する関わりの結論。そして、わたしの主に対する関わりの結論です。この順序がたいせつです。この男性は、イエス様の中に、神の恵みと慈しみを見たのでした。経験したのでした。そして、このお方とともに歩もう。そのような思いが与えられたのでした。わたしたちにも、神様の恵みと慈しみが示されています。イエス・キリストの中に、イエス・キリストの十字架のできごとの中に、確かに表されているのです。
(前川隆一牧師)