滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ                          詩編40編3節
 
詩編40編、それは、わたしたちが礼拝し、喜び、その交わりの中で生きる神様とはどんなお方なのかということを指し示している詩編です。

引き上げて下さるお方
3節で、「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせ しっかりと歩ませ」と言われています。神様によって引き上げていただいた、それが、わたしたち、キリスト者です。しかも、滅びの穴、沼からです。神様によって、罪の泥沼から引き上げていただいた、それが、わたしたちということです。

耳を開いて下さるお方
第二に、7節に注目したいと思います。「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず 焼き尽くす供え物も 罪の代償の供え物も求めず ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」と言われています。「耳を開いてくださる」お方ということが言われています。ところで、この7節のみことばは、「主が喜ばれるのは 焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり 耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」というサムエル記上15章22節のみことばを思い起こさせます。では、どうして、焼き尽くす献げ物やいけにえが主に喜ばれないのでしょうか。それは、心が伴っていなかったからでした。形式的に、義務的に献げられたものだったからでした。それに対して、神様は、わたしたちの耳を開き、心を開き、わたしたちを、心から、愛をもって、また、自発的に献げ、奉仕する者として下さるということです。

あかしする者として下さるお方
第三、10~11節、「大いなる集会で正しく良い知らせを伝え 決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。恵みの御業を心に秘めておくことなく 大いなる集会であなたの真実と救いを語り 慈しみとまことを隠さずに語りました」と言われています。主の恵みを自分のものと留めておくのでなく、語る者、あかしする者として下さるということが言われている、ということです。

(前川隆一牧師)