神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。 テトス3章5節
今日は、イエス様が洗礼をお受けになったことにどんな意味があったかということ、そして、わたしたちがキリストの名によって洗礼を受けるということにどんな意味があるのか、ということについて学びたいと思います。まず、イエス様は、どうして悔い改めの洗礼をお受けになったのでしょうか。それは、罪のないイエス様が罪人であるわたしたちの立場に立つために洗礼を受けて下さったということでした。では、そのことを受けて、わたしたちがキリストの名によって洗礼を受けるということにはどのような意味があるのでしょうか。
一つとされる
第一に、わたしたちがキリストの名によって洗礼を受けるということにはどのような意味があるのか。それは、キリストと一つとされるということです。キリストが十字架に死なれたということと一つとされて、古い罪の人に死に、キリストが三日目に復活されたということと一つとされて、罪赦された神の子として誕生するということです。
原点に立ち返る
けれども、第二に、そのようにして、罪赦されたとしても、わたしたちは、また、罪を犯してしまいます。また、そうだとしたら、わたしたちは、何度も洗礼を受けなければならないということなのでしょうか。そうではありません。洗礼により、イエス様が十字架に死なれたということと一つとされて、古い罪の人に死に、キリストが三日目に復活されたということと一つとされて、罪赦された神の子として誕生したという洗礼という原点に立ち返り、立ち返りして行く、それが、クリスチャン生活であるのです。
みことば
では、そのような恵みにわたしたちが与り、生きることができる根拠はどこにあるのでしょうか。それは、神のことば、みことばにあるということです。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです(テトス3章5節)」。
(前川隆一牧師)