わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 ヨハネ10章27節
神殿奉献祭におけるイエス様とユダヤ人たちとのやりとりの箇所です。
聴き従うことのむずかしさ
主の羊として、聴き従うことを通して、わたしたちは、主の守りと導きと祝福とを経験します。
と同時に、主に聴き従うことのむずかしさを経験する、それが、わたしたちの日々の歩みでもあります。イエス様の当時のユダヤ人たちも、「救い主はこういうお方」という前提があり、その枠の中でイエス様の教えを聴いていましたので、どこまで行っても分からない。理解できないということを経験しました。ちょうど、ラジオから音が流れている。けれども、チューニングがあっていないので、何を言っているのか分からない。そんな感じでした。
悔い改め
わたしたちも同じです。信仰をもっていても、いつの間にか、この世の価値観に流され、慣らされて、感覚が麻痺してしまうということをわたしたちは経験します。わたしたちは、人を攻撃する、その同じ罪が自分の中にもあることを認め、悔い改めて、十字架の主を信じる。そのことを通して、主に聴き従う者とされます。それが、洗礼のときです。とともに、絶えず、わたしたちは主に立ち返るようにと招かれています。それが、洗礼に立ち返るということです。
遣わされる
わたしたちは、悔い改めて、主に立ち返ることを通して、主の御声を聴く者としていただけます。とともに、遣わされて、具体的に人々を愛し、仕えることを通して、より敏感に主の御声を聴く者としていただくことができます。それは、具体的に、愛し、仕えることを通して、自分の弱さ、罪深さを示され、悔い改め、主に立ち返ることができるからです。
そのように、繰り返し、主に立ち返る。そして、そこから愛し、仕えるために遣わされる。それが、礼拝のときなのです。
(前川隆一牧師)