わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 ヨハネによる福音書10章27節
神殿奉献記念祭が行われていたころのこと、ユダヤ人がイエス様を取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と言い、それに対してイエス様が「あなたがたはわたしを信じない。わたしの羊でないからである」、そして、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」とおっしゃった場面です。
羊でない人々
第一に、「羊でない人々」とはどのような人々であるのでしょうか。「神殿奉献記念祭」、それは、紀元前2世紀、汚された神殿をユダ・マカバイという人が現れて奪回し、新しい神殿を奉献しましたというできごとを起源としていました。イエス様を取り囲んだ人々、彼らは、イエス様に対して、かつてのユダ・マカバイのような解放者を期待していました。「羊でない人々」、それは、まず願望ありきで、それに神様を従わせようとする人々のことでした。
羊とされた人々
第二に、「わたしの羊」とイエス様がおっしゃった人々とはどのような人々であるのでしょうか。願望は、自分の願いにそってものごとが実現することを願い、希望は、神様の約束に従って実現することを願います。イエス様によって「わたしの羊」と言われた人々、それは、願望ではなく、希望をもって歩む人々、いつも、神様のみこころに開かれた態度を持っている人々なのでした。
聴き従う必要
第三に、どうして羊とされた人々はイエス様の声を聞き分ける必要があるのでしょうか。羊飼いが、羊と生活をともにするように、イエス様は、天の栄光を捨てて人となり、しかも、「罪人の友」と呼ばれることをよしとなさったお方でした。また、羊飼いが、羊のために命がけで戦う存在であるように、いやそれ以上に、イエス様は、わたしたちの益をのみ考えるお方であって、最終的に十字架で自らの命を捨てて下さったお方でした。この十字架に表された愛こそ、わたしたちが主の羊として主の御声に聴き従って行く根拠なのです。
(前川隆一牧師)