このほかにも、イエスは弟子たちの前に、多くにしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 ヨハネ20章30~31節
イエス様によるパンの奇跡と、イエス様とその一行が、ゲネサレトに行かれたときのできごとです。
しるしとしてのできごと
このパンの奇跡は、しるしとしてのできごとです。では、どのようなことを指し示すしるしとしてのできごとであるのか。その鍵は、34節にあります。「イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」そう記されています。イエス様が羊飼いのいない羊のような人々の有様に強く心を動かされたできごと、そして、イエス様が、そのような人々の前に、羊飼いとして、まことの羊飼いとしてお立ちになったできごと、それがこのできごとです。では、この時点で、弟子たちは、このこと、イエス様が羊飼いとして、まことの羊飼いとしてお出でになったということを理解していたのかと言うと、残念ながら、まだ、その深い意味を理解していませんでした。弟子たちが、そのことを悟るようになった、それは、聖霊が注がれてからでした。教会が誕生してからでした。ですから、このパンの奇跡、それは、主が、羊飼いのいない羊のようなわたしたちのために、羊飼い、まことの羊飼いとなって下さったというしるしのできごとであり、弟子たちが後に経験する教会生活を指し示すしるしとしてのできごとでもあったということです。
イエス様を指し示すしるし
わたしたちは、真の羊飼いなる主に導かれる羊とされた一人一人です。そして、真の羊飼いなるイエス様を指し示すしるしとなるように召されています。わたしたちは、何をしたかではなく、何を目指して生きたか、そのことがだいじです。何を目指して生きるのか。わたしたちは、キリストを指し示して生きるように召されているのです。キリストを指し示すしるしとなるようにと召されています。そのとき、わたしたちは、何ができなくても、意味のある人生を生きることができるのです。
(前川隆一牧師)