はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 ヨハネ12章24節
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」というキリスト信仰の中心的なメッセージが語られている部分です。
一粒の麦
イエス様は、ここで、二つのことをおっしゃっています。それは第一に、「わたしは、一粒の麦として世に来た」ということです。麦が耕された黒い土の中に落ちる。姿を隠してしまう。見えなくなる。何もなくなってしまったようになる。けれども、そこから緑の芽が吹き、蒔かれた種と同じ種類の種をもつ実がたわわに実って行く。そのように、イエス様は、十字架で死ぬことを通して、命を、永遠の命をもたらすお方として、お出でになったということです。
実を結ぶ者と
もう一つのことは、「そのわたしにつながって、実を結ぶ者となりなさい」ということです。25節で、こう言われています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」実を結ぶ者となるために、「自分の命を憎みなさい」そう命じられているということです。これは、何を意味しているのでしょうか。それは、一言で言えば、今日の詩編51編で学んだ悔い改めということです。また、それは、聖霊によって生きるということです。詩編51編を見ると、「霊」ということばが繰り返されています。詩編51編、それは、詩編の作者が、父なる神様に祈り、叫び、訴えている詩のように見えますが、実は、詩編の作者の内にあって、霊が、聖霊が、そのように祈り、叫び、訴えさせている詩編であるということです。実は、悔い改めということも、人間のわざではなく、聖霊がわたしに働いてして下さるわざ、働きであるのです。
わたしたちは、聖霊によって、実を結ぶ人生に歩むことができます。そして、そのようにわたしたちが聖霊によって実を結ぶ人生に歩むことができるように、キリストは、一粒の麦となって十字架で死んで下さったのです。(前川隆一牧師)