悔い改めにふさわしい実を結べ。 マタイ3章8節
イエス・キリストの道備えをした洗礼者ヨハネの登場を記している箇所です。
恵みによる
第一に、9節。「『我々の父はアブラハムだ』などと思っても見るな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」そう言っています。確かに、神様は、アブラハムを選び、その子孫であるイスラエルという民族を選ばれました。けれども、それは、イスラエル民族の中に他の民続と比べて、優れた点、称賛されるべき点があったから選ばれたというより、神様が一方的に、恵みにより選ばれた、それが、アブラハムの選びであり、イスラエル民族の選びでした。わたしたちも、神の恵みにより、救われたという原点に絶えず立ち返って行く必要があります。
実を結ぶ
第二のこと。ヨハネは、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言いました。8節です。これは、「あなたがには、信仰がある。けれども、行いが伴っていない」ということを言ったのではありませんでした。あなたがたは、実を結ぶことができる本当の信仰をもっていないではないかと言ったということです。わたしたちも実を結ぶ信仰に歩んでいるか。人を愛し、建て上げて行く、ほんとうの信仰に歩んでいるか。点検する必要があります。
裁きのメッセージ
第三のこと。ヨハネは、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と、裁きのメッセージを語りました。ヨハネは、深い神の愛を湛える人でした。だからこそ、滅び行こうとする人の姿を見て、いても立ってもおられず、裁きのメッセージを語ったのでした。
ヨハネが語った裁き、それは、本来、わたしたちの上に降るべきものでした。けれども、その裁きを、父なる神様は、御子キリストの上に下されました。十字架で死なれたキリストを信じる信仰を土台として、わたしたちは、実を結ぶ人生を生きることができるのです。わたしたちは、そのように実を結ぶ人生を歩むとともに、洗礼者ヨハネのように、キリストを指し示して行く一人一人として歩むように招かれているのです。
(前川隆一牧師)