そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
マルコ10章52節

イエス様が、盲人バルティマイの目を開かれたできごとです。

結晶化した信仰
第一に、バルティマイの信仰、それは、結晶化された信仰でした。イエス様が「何をしてほしいのか。」とお尋ねになったのに対して、バルティマイは、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。これは、何気ないことのようですが、たいせつなことを教えてくれています。つまるところ、自分は、何を求めているのか。どんな動機で、このことをしようとしているのか。そのことに立ち返り、わたしたちも、このバルティマイのような結晶化された願い、信仰をもって歩む者としていただきたい。そう願います。

動詞の信仰
第二に、バルティマイの信仰、それは、動的な信仰、名詞の信仰ではなく、動詞の信仰でした。バルティマイは、人頼み、受動的な人生を送って来ました。動的と言うより、止まったような人生を送って来ました。その彼が、躍り上がって、イエス様のもとへやって来たのでした。それは、イエス様によって、そのようにしていただいたのでした。イエス様は、止まったような人生を生きて来たバルティマイの中にあるエネルギー、動的なエネルギーを見出し、引き出して行かれたのでした。

真の弟子
第三、バルティマイは、真の弟子となって行った人でした。このバルティマイのできごと、それは、マルコによる福音書11章から始まる受難物語のプロローグのできごとということができます。それは、十字架への道を歩まれるイエス様に、結局だれが従ったのか。それは、このバルティマイという人であったということをクローズアップしている物語ということです。なお道を進まれるイエスに従って行った(52)。その先で、バルティマイが見たものは何だったのか。それは、イエス様の十字架のできごとでした。そして、彼は、主イエスを信じる者とされたのでした。

(前川隆一牧師)