イエスは「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。
ルカ4章4節
イエス様が荒れ野でサタンの誘惑、試みをお受けになったできごとです。
守り、祝福
この荒れ野の試み、誘惑は、神の子イエス様独特のご経験でした。とともに、イエス様によってもたらされた救いとは何か、また、イエス様によって救われて歩む信仰生活とは、具体的にどのようなものなのかを、教え示してくれるできごとでもあります。イエス様によって救われて歩む信仰生活、それは、苦虫を噛み潰したような顔で生きる生活なのでしょうか。そうではありません。一方において、神様にえこひいきされていると思えるような主の守りと祝福とを経験する歩みです。わたしたちは、詩編91編にあるような主の守りと祝福とを経験することができるのです。
誘惑
とともに、今日覚えたいこと、それは、この詩編91編のみことばをもって、イエス様は誘惑をお受けになったということです。そして、わたしたちも、神様の守り、祝福ということが、逆に、わたしたちの罠となるということを経験することがあるのです。わたしたちは、神殿のてっぺんから飛び降りても傷を受けないで降り立つことができるような能力を持ち合わせていませんので、それは、イエス様とまったく同じ誘惑ということではありません。それは、聖書のみことばを前後の文脈から切り取って、自分の都合のいいように引用することを通して、イエス様によってもたらされた救いとは何か。救われて歩むとはどういうことかという焦点をぼかしてしまうという誘惑、試みです。
救いの焦点
では、イエス様によってもたらされた救いの焦点は何か。それは、罪の赦しということです。永遠の命ということです。わたしたちは、神様にえこひいきされていると思えるような主の守りと祝福とを経験します。けれども、それは、焦点ではないのです。わたしたちは、主が十字架で苦しまれたお苦しみと献げられた命によって、罪の赦しを受けています。永遠の命を受けています。神の子としての身分をいただいています。そのような賜物を受けた者として、わたしたちは、仕える者として歩むようにと召されているのです。
(前川隆一牧師)