そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 ヨハネ12章3節
過越し祭の六日前、ベタニアのシモンの家でのできごとです。
マルタ
マルタと、マリアと、そして、マリアの行為を非難したイスカリオテのユダと、この三人の人物にスポットライトを当てながら、最終的に、マリアの行為にどんな意味があったのかを考え、味わって行きたいと思います。まず、マルタです。ルカの10章とヨハネ12章、ともに、イエス様と弟子たちとをもてなすマルタの姿が描かれています。けれども、マルタの内面において、変化がありました。ヨハネ12章、そこに見られるのは、淡々と、心から、イエス様と弟子たちに仕えて、もてなすマルタの姿です。
マリア
変化ということで言えば、マルタの妹のマリアの変化、それは、目を見張るものがあります。ルカ10章において、マリアの姿、それは、「愛は惜しみなく奪う」ということばがぴったり来るような、ただただ、受けるだけの姿です。それに対して、ヨハネ12章のマリアの姿、それは、「愛は惜しみなく与える」ということを地で行くような仕え尽し、与え尽して行くマリアの姿です。このようなマルタの変化、あるいは、マリアの変化。それをもたらしたのは、何だったのか。それが、今日の箇所の前の章、ヨハネ11章のできごとでした。それは、マルタとマリアにとって、イエス様によって、深く、深く、愛される経験でした。イエス様によって、触れていただく経験でした。そして、マリアのした行為、それは、奇しくも、イエス様をメシアとして油注ぐできごとなって行ったのでした。
イスカリオテのユダ
そのようなマルタの、あるいは、マリアの愛と信仰を、イスカリオテのユダは理解することができませんでした。それは、ユダが、イエス様によって触れていただく経験をしなかったからでした。
わたしたちも、神様の愛に押し出されて、愛に生きるようにと召されています。それは、マルタのように、マリアのように、イエス様に触れていただいて、そのように生きることができるのです。
(前川隆一牧師)