信仰とは、望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認することです。
ヘブライ11章1節
イエス様が故郷ナザレにおいて、会堂に立ち、みことばを説き明かさされたときのできごと、その後半です。

ナザレの人々の不信仰
今日の箇所を通して、わたしたちは、どのようなメッセージを神様からいただくことができるのでしょうか。第一に、ナザレの人々の不信仰ということです(23)。ナザレの人々の信仰、それは、しるしを見たら信じよう。奇跡を見たら信じようというものでした。しるしを求める。奇跡を求める。それは、人情です。でも、しるしということ、奇跡ということが第一になってしまったら、それは、偶像礼拝になってしまうのです。悪い意味でのご利益信仰になってしまうのです。

信仰とは
では、第二に、信仰とは何なのか。真の信仰とは何なのでしょうか(ヘブライ11章1節、ヨハネ20章29節)。しるしを見なくても、奇跡を見なくても、神に信頼して、また、神のことばに信頼して従う。それが信仰です。それは、何のしるしも与えられない。奇跡も与えられない中で、禁欲的に信じるということではありません。神様は、おりおりにしるしを見させてくださいます。けれども、わたしたちは、しるしを第一とするのではなく、まず、神のことばに信頼してお従いするのです。

信仰の交わりの中で
第三のこと。わたしたちは、信仰の交わりの中で、神のことばに信頼して従うことができるということです。ナアマン将軍。確かに彼は、見ないで神のことばに従いました。けれども、それは、ナアマンの僕が、「治らなくてももともと、それで治ったらもうけもの。やるだけやってみてはどうでしょうか」と、ナアマンをなだめてくれたからでした。わたしたちにとっても、ナアマンにとっての僕の存在があったのです。わたしたちは、信仰の交わりの中で、神のことばに信頼して従うことができるのです。

(前川隆一牧師)