家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。     詩編118編の22節

 
エジプト・ハレル詩編の最後の詩編であり、過越し祭のときにうたわれたとされている詩編118編です。

主はわたしの味方
詩編118編は、あの最後の晩餐の後、ゲッセマネに向かう道すがらうたわれた詩編とされています。弟子たちは、詩編118編を口ずさみながら、まず、6節のみことばを思ったのではないでしょうか。「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。」イエス様に従う伝道生活、そこにもたくさんの困難があった。辛いことがあった。けれども、呼べば応えて下さる主がともにいて下さった。それが、弟子たちの実感でした。

主の御名
第二に、弟子たちは、10節のみことばを思ったのではないでしょうか。「国々はこぞってわたしを包囲するが 主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす」そううたわれています。この「滅ぼす」ということばは、直訳すると、「断ち切る」という意味のことばが使われています。弟子たちは、自分たちを包囲する悪の力を経験しました。けれども、それよりもさらに大きな、さらに偉大な主の力を経験しました。そのような力を持つ主の御名によって、悪の力を断ち切る経験をしました。

隅の親石
しかし、この時点で、弟子たちに隠されていたことがありました。それは、22節でした。「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。」ゲッセマネに向かう弟子たち。彼らは、呼べば答えて下さる主がともにいて下さる。主の御名によって、悪の力を断ち切ることができる。そのような経験を思い返しながら、詩編118編を口ずさんでいました。その弟子たちの賛美を聞きながら、イエス様は、十字架へと御顔を向けておられました。弟子たちが経験したこと、それは、主にあって経験したことでした。けれども、それは、予表としてのできごとでした。イエス様は、それを確かなこととするために、十字架へと御顔を向けておられたということです。

 

(前川隆一牧師)