疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 マタイ11章28~29節
イエス様の招きのことばです。
来なさい
信仰生活の避けるべき、「三密」ということについて、ごいっしょに学びたいと思います。第一に、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」そうおっしゃいました。第一に、何もかも自分で背負い込もうとする密をわたしたちは、避ける必要があります。
軛を負いなさい
第二に、イエス様は、「わたしの軛を負いなさい。」そうおっしゃいました。わたしたちがイエス様とともに歩むことの反対、それは、何でしょうか。それは、人とともに歩むということです。人とともに歩む。それは、悪いことではありません。でも、それが密になるとき、わたしたちはがんじがらめになってしまいます。第二に、わたしたちは、人の目を気にするという密に気をつける必要があります。
学びなさい
第三に、イエス様は、「わたしに学びなさい。」そうおっしゃいました。人々が、律法の枝葉末節にとらわれてがんじがらめになっているときに、イエス様はその律法の本質に目を留めておられました。たとえば、安息日に病人が連れて来られたとき、イエス様は、その人の病を癒されました。第三に、わたしたちは、律法主義という密に気をつける必要があります。わたしたちは、「イエス様に学んで」、律法の手段ではなく、目的に目を留めて行く必要があります。
そして、その根底において、イエス様が、わたしたちと密になって下さった。わたしたちと等しい人間となってくださり、わたしたちが負うべき罪の裁きを身代わりに負って下さったのです(フィリピ2章6~8節)。このイエス・キリストの十字架のゆえに、わたしたちは、自分の重荷を主のみもとに下ろすことができるのです。イエス様とともに歩むことができるのです。そして、ものごとの本質を見る者としていただくことができるのです。
(前川隆一牧師)