疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
マタイ11章28節
イエス様の招きのことばを含む箇所です。
来なさい
くわしく見て行くと、三つの招きが語られている、ということが分かります。第一に、「わたしのもとに来なさい」と、イエス様は、わたしたちを招いておられます。このキリストの招きに応えて、キリストのもとへ行く。それが、キリスト信仰なのです。ルターもまた、中世の残滓の残る人でした。偶像的な信仰の残る人でした。中世的な、また、偶像的な信仰をもちながら、キリストのもとに行った。そこから、「信仰義認」という聖書の、また、信仰の心臓部分とも言えるような真理を、ルターは、再発見して行ったのでした。
軛を負いなさい
第二に、「わたしの軛を負いなさい」ということが言われています。今は見なくなりましたが、牛や馬を使って畑を耕させるのに、二頭立ての場合、軛というものを使いました。「わたしの軛を負いなさい」、つまり、イエス様が、もう一方の軛を担って下さるということです。すなわち、イエス様とともに歩む、それが信仰であるということです。イエス様がともに歩んで下さる。そして、困難なとき、自分の力ではどうしようもないとき、イエス様が担って下さる。それが、信仰をもって経験することがらです。ルターも、そのことを経験して行きました。
学びなさい
第三に、「わたしに学びなさい」ということが言われています。「学ぶ」ということば、それは、「まねぶ」ということばから来たという説があるようです。ほんとうにたいせつなこと、それは、先生の背中を見て学ぶのです。では、わたしたちは、イエス様の背中を見ながら、何を学ぶのでしょうか。それは、仕えるということです。仕えて生きるということです。キリストのもとに罪の重荷を下ろし、キリストとともに歩み、そして、天へと帰って行った。それが、ルターの生涯でした。わたしたちもそれにならう者となるよう招かれているのです。
(前川隆一牧師)