「二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
マタイ18章20節
イエス様が罪を犯しても悔い改めない信徒に対する対応についてお教えになった教えと、それに続く「二人また三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という約束とです。
みことばを通して
マタイによる福音書は、その最初と真ん中と最後に、「主がともにいます」という約束が語られています。その最初は、マタイ1章23節です。今日の箇所で、罪を犯しても悔い改めない信徒に対する対応が教えられています。教会の土台、それは、罪の赦しです。そして、わたしたちの罪の赦しのためにまことの人となって下さった、それがイエス・キリストです。このキリストを通して、神はわたしたちとともにいるということを示して下さいました。そして、今日、キリストの約束のことば、みことばを通して、主がともにいて下さるということを確認することができるのです。
交わりを通して
そして、今日の箇所18章20節において、交わりを通して主がともにいて下さるということが約束されています。「二人三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18章20節)。わたしたちは、信仰の交わりを通して自分を変えていくことができるのです。いっしょに集まることがたいせつです。そして、そこにイエス様がともにいて下さるのです。
あかしを通して
そして、マタイによる福音書の最後で、主がともにいますという約束が語られています。マタイ28章18~20節。主は、わたしたちのあかし、宣教の中で、ともにいて下さいます。罪を犯しても悔い改めない信徒に対する対応ということ、それは、教会が教会の体面を保つためでしょうか。そうではありません。罪の赦しということが教会の土台です。赦しということがないがしろにされたなら、教会が教会でなくなってしまうのです。教会の赦しの流れが止まってしまうのです。主の赦しの流れをせき止めることなく、主の赦しを受けて赦す者、主の愛を受けて愛する者と主に導いていただきましょう。
(前川隆一牧師)