聖書箇所:ルカ20章9~19、フィリピ3章5~11、イザヤ43章16~28
<たとえ話の背景>
「ぶどう園と農夫のたとえ」は祭司長、律法学者たちとの“権威についての問答”を背景にして語られています。宗教的指導者たちは、人々に神の言葉を正しく説き、人々の心を神に向けさせる責任を負っております。農夫たちにとってぶどう園は、主人からの借り物であるように、宗教指導者たちにとっては、エルサレムの神殿、イスラエルの人々は、神様からの借りものです。また、私たち信仰者に与えられている全てのものも、神様からの借り物です。
<たとえ話の内容と意味>
ぶどう園の主人は、収穫の実を受けとるために、僕を農夫たちのところに送りましたが、農夫たちは送られてきた主人の僕を袋だたきにして追い返しました。
この農夫たちの姿に見せられるのは、神様から送られた預言者のことばに素直に聞き従えない神の民の姿です。
ぶどう園の主人は、最後に自分の愛する息子を送りましたが、農夫たちは、その息子を殺してしまいました。
農夫たちは、主人が別の計画を持っていることを知らなかったのです。それは、主人が戻ってきたときに、農夫たちは滅ぼされ、神の国の福音が異邦人にも与えられることです。
またイエス様は、旧約聖書のことばを引用されて、イエス・キリストを滅ぼそうと襲いかかる者は、かえって自分が砕かれ木っ端みじんにされることを示されました。
イエス・キリストは、私たちの罪の身代わりとして、捨てられた石、すなわち十字架で死んでくださいましたが、私たち信じる者には、その十字架を見上げるところに希望があり、愛が与えられるのです。
<私たちがイエス・キリストの権威を認めるとは>
イエスの権威を認めない宗教的指導者たちの罪は、私たちの罪でもあるのです。
では私たちがイエス・キリストの権威を認めるとは、どういうことでしょうか?
この世の全ての権威は神のものです。しかしこの世では、神様を知らない人も権威を持っています。クリスチャンである私たちは、“捨てられた石”となってくださった方を信じ受け入れることです。その時、イエス・キリストは愛をもって応えてくださいます。
(丹羽均神学生)