狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。
ルカ9:58
イエス様と弟子たちが、サマリア人の村をお通りになったときのこと、そして、イエス様が、弟子として歩む者の覚悟ということをお教えになった箇所です。

主の服従
第一に、あまりにもきびしいと思える教え。理不尽とさえ思える教えをお教えになったイエス様ご自身が、わたしたちに先立って服従して下さったことを覚えましょう。58節は、まさに、イエス様のご生涯ということができます。わたしたちが服従する前に、父なる神様のみこころに完全に服従し、十字架の死に至るまで服従して下さった。それが、イエス・キリストのご生涯でした。

恵み、祝福
第二に、あまりにもきびしいと思える教え。理不尽とさえ思える教え。けれども、それは、イエス様に従って、神の国を言い広めること、あかしすること、伝道することの緊急性、重大性ということイエス様は教えようとしておられるのです。そして、イエス様に従って、主の弟子として生きるその幸いということを教えようとしておられるのです。イエス様と出会い、イエス・キリストを救い主と信じることを通して、わたしたちは、死が終わりではない。罪赦され、神の子とされ、永遠の命の祝福の中で生きる世界があるということをあかしする者とされたのです。そして、葬りということも、葬りのための葬りということを超えて、復活と永遠の命の希望をもって、召された方をお送りすることができる者とされるのです。

服従
では、第三に、わたしたちが、服従する原動力、それは何なのでしょうか。わたしたちが、もし、正しく主のみこころに従っていない。正しく服従していないとしたら、それは、わたしたちが立派ではないということが問題なのではありません。そうではなく、主につながっていないということが問題なのです。主との交わりの中で、軌道修正され、軌道修正されながら歩んで行く。それが、信仰生活なのです。

(前川隆一牧師)