そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に。「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。マルコ3章5節

  安息日にイエス様が会堂で片手の萎えた人をいやされたできごと(1~6)、その後、イエス様と弟子たちとは湖の方へ立ち去られましたが、おびただしい群集が押し寄せこと(7~12節)が記されています。

どうして安息日にいやされたのか
第一に、どうしてイエス様は、安息日に手の萎えた人をいやされたのでしょうか。その鍵が、4節にあります。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。手段を目的とする、そのことを通して、愛が失われてしまうのです。自由が失われてしまうのです。そして、いのちが失われてしまうのです。イエス様は、人が物のように扱われている、そのことにいてもたってもいられず、いやしをなさったのでした。

どうしてご自分を隠されたのか
逆に、今日の箇所の後半部分において、ご自分がメシアであることを宣言する絶好の機会であるにもかかわらず、イエス様はご自分を隠されました。どうしてでしょうか。イエス様は、公生涯の最初に荒野でサタンの試みをお受けになりました。イエス様は再びここでサタンの試みに直面されたのでした。サタンは、イエス様の目を物事の本質からそらそうそらそうと働きかけました。それに対して、イエス様は物事の本質をしっかり見つめて目をそらそうとなさいませんでした。そして、その本質とは、十字架抜きには救いはありえないということでした。

小舟を用意しなさい
では、この全体を通して、わたしたちに一体何が語られているのでしょうか。今日の箇所の鍵となるもう一つのことば、それは、かたくなな心ということばです(5)。わたしたちも、心がかたくなってしまいます。イエス様によって絶えず絶えず心をやわらかくしていただく必要があります。そして、イエス様が押しつぶされそうになりながら、「小舟を用意してほしい」と弟子たちにおっしゃったように、わたしたちも人々とイエス様との間に立って奉仕するように召されているのです。

(前川隆一牧師)