二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。                        マタイ18章20節

「兄弟の忠告」そう表題のつけられているところです。

罪に対する対処の基本
この箇所は、あのマタイ16章のペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白した場面とともに、もう一か所、「教会」ということばが出て来る福音書の箇所です。ある人は、この箇所は、教会憲章とも言うべきたいせつな箇所である。そう言われます。けれども、そこで語られている、それは、スケールの大きなことではなく、一人の信徒が罪を犯したときに、どのように対処すべきか、という非常に私的な、個人的なことがらです。どうして、このような私的な、個人的なことが記されているのか。それは、ここで語られていることがらが、罪に対する対処の基本であると同時に、教会のよって立つ基本的なことがらであるからです。

主はともにいて下さる
また、20節、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」それは、有名なみことばであり、愛称聖句にしておられる方も多いみことばです。イエス様がいてくださる。イエス様がともにいてくださる。わたしたちの真ん中にいてくださる。けれども、ある方は言われます。「イエス様がいてくださる。ともにいてくださるということをどうやって確認することができるのか。」わたしたちは、そのことをどのようにして確認することができるのでしょうか。けれども、考えてみると、わたしたちの存在というものも、それほど頼りになるものではありません。わたしたちの肉体は、やがて、弱り、朽ち、消えて行くのです。それに対して、わたしたちの主イエス・キリストは、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないお方」なのです。それは、みことばの約束に従ってそうなのです。そして、十字架による赦し、十字架による罪の赦し、そのことにおいて、主は、確かにいて下さる。ともにいて下さる。わたしたちの真ん中にいて下さる。そう、わたしたちは確信することができるのです。

(前川隆一牧師)

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