わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。 ヨハネ10章11節
羊飼いと羊の関係にたとえて、主とわたしたちとの関係を教えておられる箇所です。
聴き従う
第一に、わたしたちの信仰生活、それは、よい羊飼いであるイエス・キリストに聴き従う歩みです。羊というのは、外敵から身を護る何の武器も持っていない弱い動物です。また、近視眼的な動物です。さらに、導かれるということがないと、自分の欲望のままに食べて食べて、丸々と太って、そのままごろんと仰向けになると、自分で起き上がれなくて死んでしまう動物のようです。信仰生活、それは、よい羊飼いであるイエス・キリストに聴き従う歩みです。そして、そこに、平安があり、豊かな祝福があるのです(10)。
イエス・キリストとはどんなお方か
第二に、そのわたしたちが聴き従うべきイエス・キリストとは、どんなお方なのでしょうか。18節の「わたしはいのちを捨てることもでき、それを再び受けることもできる。」というところ、ある訳では、「わたしはいのちを捨てることも、それを再び受けることもできる権威を持っている。」そう訳されています。また、別の訳では、「命を捨てることも、再びそれを獲得する自由を持っている。」そのように訳されています。イエス様は、権威をお持ちの方でした。自由をお持ちの方でした。その権威を、その自由を行使して、自ら、死を選び取って下さった。それが、あの十字架のできごとでした。
キリスト者の自由
そこで、第三に、では、そのイエス・キリストに聴き従うとは、具体的にどのようなことなのでしょうか。イエス様は、権威をお持ちの方でした。自由をお持ちの方でした。その権威を、その自由を行使して、自ら、死を選び取って下さった。それが、あの十字架のできごとでした。そのイエス様の羊とされ、イエス様の御声に聴き従う、それは、キリスト者の自由に生きる歩みであるのです。受け身の義、まったくの受け身としての救いを受け取るとともに、能動の義を受け取り、能動的に、積極的に愛と奉仕に生きる。それが、キリストに聴き従うということなのです。
(前川隆一牧師)