わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。                            マタイ18章33節

 「仲間を赦さない家来のたとえ」です。

負い目を知る

 ペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と質問したのに対して、イエス様は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになりました。驚くペトロに向かってお話になったのが今日のたとえ話です。ペトロは赦しを量で考えましたが、イエス様は赦しを質で考えられました。「完全に赦しなさい」それが、イエス様の教えでした。では、わたしたちは、どのようにしてイエス様の教えを自分のものとすることができるのでしょうか。その第一は、神様の前における自分の負い目を知るということです。この家来は、王様の前に莫大な借金をしていました(24)。わたしたちも、神様の御前に償うことのできない罪を積み上げているのです。

負い目が赦されていることを知る

 第二に負い目が赦されているといことを知る必要があります。たとえの中で、王様は家来を見て「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにして」やりました(27)。これは、神様がわたしたちにして下さったことです。わたしたちは、聖い神様の前に償い切れない罪を積み上げています。そのわたしたちを憐れんで、罪のないお方をわたしたちの身代わりとして罰し、そのことを通して、わたしたちの罪を帳消しにして下さった、それがイエス・キリストの十字架のできごとでした。

赦しに生きる

負い目を知る、負い目が赦されていることを知る、そして、赦しに生きるようにわたしたちは召されています。そこで、たいせつなことはスペースを取るということです。イエス様を、聖霊様をお迎えするスペースを確保するということです。赦せない自分を認めて、そこに主をお迎えする。そして、主の赦しを受けて、赦しに踏み出して行く、それがわたしたちの歩みです。願わくは、わたしたちの歩みが、主の赦しの波紋が広がっていく歩みでありますように。

                                                                                               (前川隆一牧師)