だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。ルカ7章47節
ファリサイ派のシモンに招かれたときのこと、イエス様が一つのたとえ話をなさった後、一人の女性に向かって罪の赦しの宣言をなさったできごとです。
愛
たぶん、この女性は、貧しい人だったことと思われます。そして、人々から見下されている人でした。希望のない人生を生きている人でした。それに対して、シモンはお金持ちでした。地位のある人でした。そして、向上心のある人でした。そのシモンにして、欠けているものがありました。この女性にはあって、シモンには欠けているものがありました。それは、第一に、愛ということでした(47)。
罪の認識
第二に、シモンには欠けていて、この女性にはあるもの、それは、罪の認識ということでした。イエス様は、シモンに、一つのたとえ話をなさいました(41~42)。それは、人との比較の中で、自分は、人より罪深いかどうかということではなく、自分自身を顧みて、赦されるべき罪があることを認め、その赦しのために、まっすぐにからの手を神様に向けているかどうかというたとえ話でした。
信仰
第三に、シモンには欠けていて、この女性にはあるもの、それは、信仰ということでした(50)。今日の使徒書、ガラテヤ信徒への手紙において、「イエス・キリストへの信仰」ということが言われています。それは、キリストと一つとされる信仰ということです(ガラテヤ2章19~20節)。キリストが十字架で死なれたように、キリストと一つとされて、古い罪の人に死ぬ。キリストが復活されたように、キリストとともによみがえらせていただいて、新しく生まれた者として愛し、仕える、ということです。シモンの心は、イエス様とともに、招きに応えて来てくれた友人、知人たちにと分散していました。それに対して、この女性は、自分の全存在をイエス様にかけようとしていました。そういう意味で、この女性の信仰は、パウロが言う「イエス・キリストへの信仰」につながる信仰ということができます。
(前川隆一牧師)