イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」 マタイ18章22節
福音書は、「仲間を赦さない家来のたとえ」と表題のつけられているところです。
七の七十倍までも赦しなさい
ペトロの問いに対して、イエス様は、「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」そうお答えになりました。「七」というのは、完全ということを意味する数字のです。ですからその「七の七十倍」ということは、完全に、どんなに罪を犯されたとしても完全にゆるすように。そうイエス様はお教えになったということです。けれども、そのようなことは、わたしたち人間に、ほんとうに可能なのでしょうか。
詩編103編
その前に、今日の詩編は、「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって 聖なる御名をたたえよ。」そううたわれている詩編の103編でした。それに対して、詩編86編11節で、ダビデは、心が乱れに乱れているそのままで、神様に訴え、神様が「一筋の心をお与え下さる」ようにと祈りました。この詩編86編11節の祈りと詩編103編とでは、祈りの方向がまったく逆です。どちらが、正しい祈りなのでしょうか。答えは、両方正解、両方必要です。ダビデも、繰り返し、あの詩編103編の祈りをしたのです。だからこそ、危急のとき、心がちりぢりになる中で、祈り、訴えることを通して、魂に刻みつけられた神様のお姿が、神様のご愛が、心によみがえって来たのでした。
仲間を赦さない家来のたとえ
今日の福音書も同じです。わたしたちは、イエス・キリストの十字架によって、払い切れない罪の代価を帳消しにしていただいたのです。そのことを正しく受け取ることを通して、わたしたちは、赦しに生きる者とされるのです。逆に、イエス・キリストの十字架の赦しが抜け落ちて行くとき、わたしたちは、あの家来のように人を赦さず、裁く者となってしまうのです。ですから、わたしたちが赦しに生きる、それは、道徳の問題ではありません。十字架の主の赦しを受け取ることを通して、神様がして下さる奇跡であり、聖霊なる神様のみわざであるということです。
(前川隆一牧師)