すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」 ルカ2章49節
イエス様の唯一少年時代のできごとについて記している唯一の箇所です。
メシアとしての意識のめざめ
この場面、それは、いったい何を意味しているのでしょうか。二つのことに心を留めたいと思います。それは、第一に、イエス様のメシアとしての意識のめざめということ。もう一つは、イエス様のメシアとしての働き、召しに対するめざめということです。
イエス様は、父なる神様を「自分の父」と意識して歩まれました。イエス様は、神様に向かって、「父よ」と呼びかけ、また、弟子たちに、そして、今日のわたしたちに対しても、イエス様の名によって父なる神様に祈るようにと勧められました。わたしたちキリストを信じる信仰者は、イエスの名によって祈る祈りは、神様に聞かれている。届いている。そう確信することができるのです(ヨハネ16章24節)。信仰をもっていてもいなくても、試練を通ります。困難に直面します。でもその試練の中で、困難の中で、安心して嘆くことができる。それが、わたしたちキリストを信じる信仰者の歩みです。
メシアとしての働きのめざめ
第二のこと。実は、今日の箇所、原文のギリシャ語では、「家」ということばは出て来ないのです。イギリスの欽定訳聖書を見ると、「わたしがわたしの父の仕事をしているのを」と訳しています。「家」ではなく、「仕事」。また、その「仕事」に忙しくしておられるということです。すなわち、イエス様が、ご自分のメシアとしての召し、働き、使命を自覚し、それに向かって、歩み始めておられるということです。イエス様は、父なる神様のみこころに従って、それこそ、忙しく立ち働かれました。そして、その果てに、十字架で命を献げられました。その歩みを通して、わたしたちに新しい歩みが開かれました。それは、わたしたちが、キリスト者の自由に生きる道です。イエス様が、忙しく立ち働かれたように、わたしたちも自分に与えられた召しに従って、それこそ、忙しく働き、神と人とに仕えるようにと召されています。それは、そのことによって救いを得るためではなく、救われた者として、愛をもって、そのように歩むようにと召されているのです。
(前川隆一牧師)