「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

ルカ18章14節
「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえです。

ファリサイ派の人
第一に、ファリサイ人です。ファリサイ人は、どうして「義」とされることはなかったのでしょうか。ファリサイ人の祈り、それは、他の人との比較の中で自分を義としようとした祈りであり、祈りというより、自慢話であり、独り言でした。

徴税人
第二に、徴税人です。徴税人は、自分の努力やがんばりによっては救うことのできない罪人であることを認めて、自分を贖って下さる贖い主を、心の目をもって見上げました。それは、ルターの信仰とも重なります。ルターは、恵み深い神様にお会いするために、自分を打ちたたいて努力し、精進しました。けれども、「神の義」、「神が義である」ということが自分の前に立ち塞がっているように思えました。けれども、聖書と格闘する中、ルターは、一つの答えを見出して行きます。ルターは、それまで、「神の義」と言うとき、「神が義である」という意味に受け取って来ました。けれども、「神の義」それは、「神から贈り物として贈られた義」ということではないか、という発想の転換が訪れます。そのような思いで、聖書全体を読み直してみたとき、自分の中のパラダイムが転換する経験をルターはしたのでした。

ほんとうの祈り
第三のこと。祈りということ。ほんとうの祈りということ。ルカの18章1~14節まで、三人の人の祈りが記されています。それは、やもめの祈りであり、ファリサイ人の祈りであり、徴税人の祈りです。ファリサイ人の祈りを真ん中にして、やもめの祈り、徴税人の祈り、それは、正反対の祈りのように思えます。けれども、そうではないのです。わたしたちは徴税人の祈りをし、徴税人の信仰に立つとき、ほんとうの意味で、やもめの祈りを祈る者としていただくことができるのです。祈ること、愛すること。それには、勇気が必要です。わたしたちは、赦しを受けて、ほんとうの意味で、祈る勇気、愛する勇気を自分のものとすることができるのです。

(前川隆一牧師)

 

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