わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 ルカ12章49節
イエス様が「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくがむしろ分裂だ」(51)ということを言っておられる箇所を含むところです。
平和ではなく分裂
イエス様は、わたしたちに真の平和をもたらしてくださるお方です。だからこそ、イエス様は、人間の現実を正しく見据えようとされたのです。そして、手術をして癌細胞を取り除くように、その問題が正しく処理されない限り、真の平和を来たらせることはできない、ということをおっしゃったのです。
火・審きの火
今日の箇所で鍵となることば、それは「平和」、そしてもう一つは、「火」ということばです。この「火」ということばが何を意味しているか、二つの解釈があります。一つは、言うまでもなく、そのような罪に対する裁きの火ということです。けれども、50節において、イエス様はこう言われるのです。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。この火を地上に投じたとき、その審きの火によって焼かれるのは自分だと言われたのです。それは、言うまでもなく、イエス様が十字架でお受け下さった洗礼、わたしたちの身代わりにお受け下さった審きということです。
火・聖霊の火
もう一つ別の解釈、それは、ルカによる福音書のいわば第二巻、使徒言行録の中に記されている五旬節の日、一同が集まっているところ炎のような形で聖霊が降ったというあの聖霊のことをたとえているという解釈です。イエス様は、信じる者に聖霊の火をお与えになるお方です。では、聖霊の火をいただいて生きるとは、どのようなことなのでしょうか。それは、聖書の約束のみことばを信じ、聖書のことばに聴き従うという生き方です。そして、そのわたしたちの歩みを通して、主は平和を造り出して下さるのです。
(前川隆一牧師)