そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。 ルカによる福音書24章42~43節
エルサレムの取って返した二人の弟子が復活されたイエス様とお会いした次第を話しているその最中、そのイエス様がお姿を現されたできごとです。
日常のただ中に
イエス様は弟子たちにそのお姿を現し、さらに、魚を食べられた、食事をされた、ということが記されています。このことは、どんな意味を持っているのでしょうか。それは、イエス様は、食事に代表される弟子たちの日常の真っ只中に復活のお姿を現された、ということです。イエス様は、わたしたちに、平和、平安をお与えくださいます(36)。とともに、生活の中で、具体的に導いて下さるお方なのです。
栄光の体
とは言うものの、どうして、イエス様は、焼いた魚を食べられたんだろうか。また、ルカは、どうしてわざわざそのことを書き記したのでしょうか。一方において、復活されたイエス様は、鍵のかけられている部屋にすっと入ることのできるような時間と空間に支配されない存在でした。でも、もう一方において、それは、手も足もある、魚も食べることのできる体を持ったお方でした。それは、わたしたちの理性を超えています。けれども、それこそが、復活されたイエス様でした。まさに復活されたイエス様の中にナザレのイエスとしてのアイデンティティーが連続していた。いやそのナザレのイエスとしてのアイデンディティーが完成された、それがイエス様の復活体であった、ということです。そして、キリストを救い主と信じるわたしたちもまた、わたしがわたしとして完成される、それが、復活によってもたらされる恵みであるのです。
使徒として
第三に、イエス様と食事をともにした、その人々が宣教に遣わされた、そんな風にルカは言っています(使徒言行録10章40~41節)。使徒と言うとたいそうに聞こえますが、砕けて言えば、お使いということです。主のお使いです。わたしたちも、主のお使いとしての使命を果たして行くよう召されているのです。
(前川隆一牧師)