このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。
ヘブライ7章26節
メルキゼデクと重ね合わせるように、主イエス・キリストの大祭司としてのみわざを語って来たその締めくくりの部分です。
救いにおいて
26節の最後の部分ですが、聖書の訳を読み比べてみると、「必要な方」という訳と、「ふさわしい方」という訳と二通りの訳がなされているということを発見します。そのような中で、二つを重ねて訳している訳があります。それは、「この大祭司こそ、わたしたちの必要を最もふさわしい仕方で満たしてくださる方」、そう訳しているということです。
大祭司なるイエス様は、わたしたちの必要を最もふさわしい仕方で満たして下さるお方です。それは、救いにおいて、わたしたちの必要を最もふさわしい仕方で満たして下さるお方です。
奉仕において
ルターの「キリスト者の自由」という本の中で、キリストはメルキゼデクのように、天において見えざる務めを果たしていて下さる、ということが書かれています。その見えざる務めとは、わたしたちのために祈るということ。そして、御霊をもってわたしたちを教えて下さることです。そして、それに続けて、ルターは、この主イエスの見えない勤めを、見える具体的なこととして、この地上で行っている人たちがいる、と言っています。つまり、わたしたちキリスト者のことです。このわたしを主は、祭司として、小さなキリストとして、お用いになろうとしておられるのです。そのことを思うとき、わたしたちは、へりくだらざるを得ません。そして、そのように、へりくだるわたしを主が満たして下さるということを経験することができるのです。大祭司なるイエス様は、わたしたちの必要を最もふさわしい仕方で満たして下さるお方です。それは、救いにおいて、そして、奉仕において、わたしたちの必要を最もふさわしい仕方で満たして下さるお方であるのです。
(前川隆一牧師)