教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の満ちておられる場です。                    エフェソ1章23節
 
「パウロの祈り」と表題がつけられている部分です。

クリスチャンの祈り
第一に、祈りということ。パウロの祈りを見るときに、相手の人々の信仰のすぐれた点に目を留め、それについて感謝をささげている、そのような言及をたびたび目にすることができます。また、パウロは絶えず、クリスチャンの霊的成長に関心を寄せていた、ということが分かります(15~16)。このパウロの祈りを模範として、わたしたちもわたしたちの祈りを整えて行く者でありたいと思います。

クリスチャンの奉仕
第二に、クリスチャンの奉仕ということ。すべてのものを足もとに従わせたお方を頭としていただいている、それが教会です(21~23)。それは、キリストの十字架と復活を通して、「すべてのものを足もとに従わせ」られたのです(20)。教会がそのようなものであるとするなら、逆に言えば、キリストの体として召し集められたわたしたちは、父なる神様が、また、主キリストがどれほど偉大なお方であるのか、どれほどの愛でわたしたちを愛しておられるのかということをこの世にあかしして行く使命がわたしたちに与えられているということができます。

原動力
第三に、そのような祈り、奉仕の原動力がどこにあるのでしょうか。「神を深く知る」それこそが、わたしたちの祈り、奉仕の原動力であるということです(17)。

今日の福音書の聖書の箇所は、イエス様の昇天のできごとが記されている箇所でした。イエス様は弟子たちを祝福し、その祝福するお姿そのままで天にお帰りになりました。そして、今も、わたしたちのことを祝福して下さっています。また、とりなし祈って下さっています。そのイエス様の祝福ととりなしの中で、わたしたちは、いよいよ神を知る、より深く知るようにと招かれています。そして、そのことを原動力として、祈る者、キリストの体なる教会を建て上げて行く者として歩むようにと招かれているのです。

(前川隆一牧師)