キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
フィリピ2章6~8節
キリストのけんそんということをパウロが語っている有名な箇所です。
神の身分でありながら
第一に心に留めたいこと、それは、当たり前のことですが、キリストは、神の身分を持つお方、神であったということです。そのお方が、その身分を捨てて人間となって下さったということです(6)。わたしたちは、たいせつにしているものが自分にとって価値のあるものであればあるほど、それを失ったとき、大きな喪失感を味わいます。キリストは、神であるということを手放して、人間となられた。それは、わたしたちが想像できないような喪失感を味わって下さったのです。
僕の身分になり
第二に、「僕の身分になり」ということが言われています(7)。それは、キリストが人となられたその目的ということを表しています。それは、僕となるために人間となられたということです。現在、わたしたちは、自分は自由だと言ってみたところで、その実、神様に背を向けて歩むという道しか選び取ることができない者となっています。それは、最初の人間であるアダムが罪を犯して以来のわたしたち人間の現実なのです。そのわたしたちのために、もう一度、わたしたちが神に従順に仕える者として生きる道を開くために、僕の身分になり、人間と同じ者になられた、それが、イエス・キリストであったということです。
けんそん
そして第三に、真の「けんそん」の道にキリストが歩んで下さったということです(8)。わたしたちは、だれかのために死ぬというとき、何らかの見返りを期待してしまいます。人のために死ぬ、社会のために死ぬ、人類のために死ぬ、と考えるだけで気持ちがいいのは、そういう誇りがあるからです。けれども、イエス・キリストは、そのような誇りさえはぎ取られる仕方で、死んで下さったのです。
わたしたちは、このお方を見上げ、このお方を心にお迎えすることを通して、わたしたちも真のけんそんを身につけ、仕え合って生きることができるのです。
(前川隆一牧師)