また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」                        マルコ4章26~27節

 「成長する種」のたとえ、「からし種」のたとえ、そして、「たとえを用いて語る」と表題のつけられている部分です。

みことばに力
第一に、みことばによって実を結ぶことができる。みことばに力がある、ということを覚えたいと思います。みことばには力があるというとき、それは、何を意味しているのでしょうか。聖書のみことばに何か、魔術的な力があるということなのでしょうか。そうではありません。朽ちない種である、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた者として、わたしたちは、実を結ぶ者としていただくことができるのです。「あなたがたは朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(ペトロ第一、1章23節)。

いやしていただいて
第二に、わたしたちは、みことばによって、心をいやしていただいて、実を結ぶ者としていただくことができるのです。肉の思い、生まれながらの思いに従うとき、わたしたちの思いの中に生れて来るもの、それは、恐れということです。人間の行い、それは、たいせつです。必要なものです。けれども、神様に信頼しないで、自分の思いで行う行い、それを、神様はお喜びにならないのです。わたしたちは、まず神様に信頼し、神様の愛に対する応答としてよきわざをなして行くようにと召されているのです。そういう意味で、そのような神様に対する信頼を身につけて行くために、「夜昼」というのは、たいせつなリズムであると言えます。

すべてを知ることはできない
第三に覚えたいこと。それは、わたしたちは、イエス様の幻の、そのすべてを知ることはできないということです。その一部しか知ることができないということです。ルターが、「明日、世の終わりが来たとしても、わたしはリンゴの木を植え続ける」と言ったように、今日も、明日も、実を結ぶという幻をもっておられるイエス様に信頼して、目の前の奉仕を忠実に行う。それが、わたしたちに与えられていることがらであるのです。

(前川隆一牧師)