そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 ルカによる福音書24章8節
イエス様が復活された朝のできごとです。
たわ言のように思われた
女性の弟子たちは、イエス様のお墓から取って返して、熱心に見たこと、聞いたことを伝えました。それに対して、使徒たちは、それが「たわ言のように」思われました。でも、それは、否定的なことばかりではありません。それは、使徒たちは、カルト的な信仰をもつ人々ではなかった。非常に理性的であり、普通の人々であったということを意味しています。キリスト信仰は、理性的に、常識的に考えることをたいせつにします。けれども同時に、理性というものにも限りがあることを認めて、神様により頼んでいく、それがキリスト信仰なのです。
イエスの言葉を思い出した
使徒たちには、女性の弟子たちの話が「たわ言のように」思えました。それに対して、女性の弟子たちは、熱心に使徒たちに見たこと、聞いたことを伝えました。それは、彼女たちが主の復活を信じたからでした。どうして、女性の弟子たちは、主の復活を信じることができたのでしょうか。それは、イエス様のことば、みことばを思い出して、彼女たちは信じたのでした(8)。理性というものにも限りがあることを認めて、神様により頼んでいく、それがキリスト信仰です。では、何をよりどころとして神様により頼んでいくのか。それは、聖書のことば、みことばをよりどころとして、神様により頼んで行くのです。
ゆるしのあるところに命がある
では、女性の弟子たちは、主の復活をどのように理解したのでしょうか。女性の弟子たちは、十字架のできごとと復活のできごととが一つにつながって理解することができたのでした(7)。「肉を斬らせて骨を斬る」という言い方がありますが、まさに、イエス・キリストが十字架と復活を通してして下さったのはそのことだったのでした。ゆるしのあるところ、そこで、わたしたちは命を経験することができるのです。
(前川隆一牧師)