自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。 マタイ20章15節
「ぶどう園の労働者」のたとえと表題につけられている箇所です。
主権は誰にあるか
このたとえ話を解く三つの質問があります。その第一、それは、「主権は誰にあるか」という質問です。このたとえ話の主人、それは、この世界を造り、わたしたちに命をお与えになった主なる神様のことを指し示しています。わたしたちは、コストパフォーマンスを求められます。そのために、努力し、精進し、切磋琢磨する必要があります。けれども、それとともに、いや、それだからこそ、わたしたちが手にしている健康も、能力も、そして、命さえも、実は、主なる神様から委ねられ、一時お預かりしているということに立ち返ることが必要なのです。
だれがいちばん苦しんだか
第二の質問、それは、「だれがいちばん苦しんだか」という質問です。朝いちばんに雇われた労働者たち、彼らは、一日の厳しい労働をしました。けれども、彼らは、「これで、家族を養うことができる」という安心と、「家族のために」という生きがいをもって一日を過ごすことができました。それに対して、夕方5時に雇われた労働者たち、彼らは、家族を養うことができないという焦りと不安の中で、一日を過ごしたのでした。朝いちばんに雇われた労働者たち、彼らは、主人の好意により、恵みにより、働きに就かせてもらったということを忘れてしまったとき、5時から雇われた人々がどんな思いでその一日を過ごしたのかということを思いやることができなくなってしまったのでした。
だれが5時に雇われた労働者か
第三の質問、それは、「だれが5時に雇われた労働者か」という質問です。夕方5時に雇われた労働者は、ただただ、主人のあわれみによって仕事に就かせてもらったと感謝しました。その上、一デナリオンをもらったとき、主人の恩情に涙を流して喜んだに違いありません。実は、わたしたち一人ひとりもまた、夕方5時に雇われた労働者なのです。ただただ、主のあわれみ、恵みによって、罪赦され、主のわざに参加する者としていただいた。それが、わたしたちなのです(コリント第一の手紙15章10節)。
(前川隆一牧師)