すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」      ルカ3章49節
 イエス様の少年時代の唯一のエピソードです。

聴かれた
イエス様は、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」とおっしゃいました。イエス様は、「父の家」、すなわち、神殿におられました。そこで何をしておられたのか。それが、今日心に留めたい第一のことです。46節、「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」とあります。まず、イエス様は、「聞いて」おられたのです。みことばを「聞かれた」のでした。そして、その中心は、「律法」、神の「律法」ということでした。

行われた
イエス様は、みことばを「聞かれ」ました。熱心に、「聞かれ」ました。そして、そのみことばに従われました。それが、今日覚えたい第二のことがらです。51節、「それから、イエスはいっしょの降って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった。」そう記されています。イエス様は、その服従を通して、人間として、知恵に富む者となって行かれました。どうして、イエス様は、神であり、神の御子でありながら、人間として、律法に従われたのか。それは、イエス様が、わたしたちにとっての知恵となるために、でした(コリント第一の手紙1章18節)。

自由
第三に、イエス様は、自らの意志で、律法に従われました。イエス様は、神であり、神の御子でした。神であり、神の子であるイエス様は、人間であるヨセフとマリアに仕える必要はありませんでした。けれども、まことの人として、イエス様は、故郷に帰り、ヨセフとマリアにお仕えになりました。それは、イエス様が、自らの意志でそうなさったことでした。

わたしたちは、「魂の回復」を必要としています。そして、そのために、「律法」が、たいせつな役割を担っています。その「魂の回復」と「律法」との間に、キリストは立って、わたしたちを招いておられるのです(マタイ11章28~30節)。

(前川隆一牧師)