二人または三人がわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるのである。
                               マタイ18章20節
 イエス様が、教会ということを語っておられるところです。

キリストがそこにおられるところ
第一に、教会、それは、キリストがそこにおられるところです。「二人または三人がわたしの名において集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20)。考えてみれば、わたしという存在は、不確かなものです。わたしたちの生、また、わたしたちの交わり、それは、永遠ではないのです。それに対して、主と主のことばは、永遠に変わることはないのです。永遠に変わることのない主と主のことばに支えられて、生き、交わり、奉仕をさせていただく。それが、実は、わたしたちの信仰生活なのです。

キリストがわたしたちの真ん中におられるところ

第二に、教会、それは、キリストがわたしたちの真ん中におられるところです。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19)。この「心を一つにして」という部分ですが、ギリシャ語では、「シュンフォネオ」ということばが使われています。このことばから生まれた音楽用語があります。「響きを共にする」という意味の「シンフォニー」ということばです。教会は、イエス様が真中におられて、お互いにお互いの響きを響かせ合いながら、神の賛美を奏でる、言わば交響楽団であるのです。

教会の中心
第三に、その教会の中心、それは何なのでしょうか。それは、罪の赦しということです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15)。ほかの何ができなくなったとしても、キリストの名による罪の赦しが宣言されているなら、教会は教会として立って行くことができるのです。罪の赦しを通して、わたしたちは、永遠の希望をもつことができます。罪の赦しを通して、わたしたちは、試練の中にあって生き抜いて行く平安をもつことができます。また、罪の赦しを通して、わたしたちは、わたしがわたしとして、いよいよ個性的に、ユニークに生きる者とされるのです。

(前川隆一牧師)