「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」 ヨハネ8章31~32節
イエス様が、「真理はあなたがたを自由にする」とおっしゃった箇所です。
仕える僕としての自由
今日は、宗教改革主日です。イエス様が、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃった自由、それは、ルターによって再発見された自由でもありました。その自由とはどのような自由だったのでしょうか。それは、第一に、仕える僕としての自由です。ルターは、キリスト者は、キリストの十字架の贖いにより、また、その救いを受け取る信仰によって、だれにも服しない自由な主人、王とされた。とともに、その自由を、だれにでも服する僕として生きるようにされた。そこに、キリスト者の自由がある。ほんとうの自由がある。そう、言いました(ローマ12章1~2)。
悔い改めに生きる自由
第二に、それは、悔い改めに生きる自由ということです。わたしたちは、世にあって召しに生きるよう召されています。使命に生きるよう召されています。わたしたちは、その点、甘えてはならないのです。甘えないで、精いっぱい召しに生きようとするとき、わたしたちは、自分の罪を示されるのです。古い人が動き続けていることを経験するのです。でもそこで、また、古い人はキリストとともに死んだことを認めて、新しい人に焦点を合わせて生きる。それが、キリスト者の歩みなのです(ローマ6章4節)。
実を結ぶ自由
第三に、それは、実を結んで行く自由です。悔い改めということも、誤解している方があります。悔い改めを反省と誤解しておられる方があります。悔い改めを後悔と誤解しておられる方があります。後悔し、反省するのでなく、キリストのもとに行き、いのちの主なるキリストにつながって、わたしたちは実を結ぶことができるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15章5節)。
(前川隆一牧師)