人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価が支払いえようか。   マタイ16章24節
 
 イエス様による最初の受難予告の箇所です。

得をする生き方
この中で、イエス様は、「何の得があろうか」と言っておられます。損か得かということを、おっしゃっておられるということです。第一に、イエス様が、この道こそ、わたしたちが得をする道であると教えておられる歩み、生き方とはどんな歩み、生き方なのか。それは、24節です。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う。それこそが、わたしたちにとって、ほんとうの意味で得をする歩み、生き方であるということです。

なぜ
では、第二に、その歩み、すなわち、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う。神様のみこころに歩む歩み、生き方が、わたしたちにとって、得であるのでしょうか。それは、そこにおいて、イエス様とお会いすることができるからです。わたしたちは、日々、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う。神様のみこころに歩むように召されています。それは、愛する道であり、与える道であり、仕えて行く道です。けれども、そこにおいて、わたしたちは、イエス様とお会いすることができると約束されているのです(マタイ25章40節)。

土台
では第三に、そのイエス様が得と言われる歩み、生き方に、わたしたちが歩むことができる原動力、それは何なのでしょうか。それは、イエス様の十字架の愛です。肉のがんばりで、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従うのではなく、イエス様の愛を受けて、イエス様の十字架の愛を受けて、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従うことができるのです。自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従う。神様のみこころに歩む歩み、生き方が、わたしたちにとって、得である、もう一つのこと、それは、自分の価値、値打ちを見いだすことができるということです。それは、キリストの命であるということです。

(前川隆一牧師)