民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。 ルカ3章21~22節
洗礼者ヨハネの働き、そして、イエス様の洗礼のできごとです。
いろいろなひっかかり
今日の箇所、深く味わえば味わうほど、いろいろな引っかかりを覚える箇所です。第一に、ルカによる福音書は、祈りの中で、イエス様が洗礼をお受けになったということを強調しているということです。そのようなイエス様の祈りの姿に対して、自らのことを省みるとき、わたしたちは、なんとも心もとない思いになるのではないでしょうか。第二の聖霊ということです。今日の箇所の前半では、聖霊の働き、それは、わたしたちの罪を示し、裁きを指し示すということが教えられています。では、わたしたちのクリスチャン生活、それは、聖霊によって、罪を示され、打ちのめされ続ける歩みなのでしょうか。第三に、イエス様が「あなたはわたしの愛する子」との父なる神様の御声をお受けになったということ。イエス様は、まだ、具体的に何かをなさったというわけではありません。それでは、この御声は、どういう意味で、イエス様にかけられた御声だったのでしょうか。
主の洗礼
それらのことの前に、どうして、イエス様は、ヨハネから洗礼をお受けになったのかということを確認したいと思います。イエス様の洗礼。それは、ひと言で言うなら、罪のないイエス様が、罪人であるわたしたちの立場に立って下さったできごと、それが、イエス様の洗礼のできごとでした。
解決
イエス様がわたしたち罪人の立場に立って下さり、十字架への道を歩んで下さったということ、ここに、さまざまな引っかかりの解決があります。イエス様が、わたしたち罪人の立場に立って下さり、十字架への道を歩んで下さった。その故に、わたしたちは、イエス・キリストの名によって祈ることができるのです。また、わたしたちは、正しく、自分の罪を見つめるとともに、その罪の裁きの身代わりとして十字架で死んで下さったキリストを見上げることができるのです。そして、試練の只中で、わたしたちは、父なる神様の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との御声を聞くことができるのです。
(前川隆一牧師)