イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」                  マタイ21章42節
 
「ぶどう園と農夫」のたとえと表題のつけられているところです。

イスラエル人の罪
このたとえ話、それは、要するにあなたがたのしていることはこういうことと、イエス様が当時の指導者たちに当てつけてお話になったたとえ話。それが、このたとえ話ということができます。神様は、繰り返し繰り返し、預言者を送り、彼らに悔い改めるようにと語られましたが、このたとえの通り、ある者を袋だたきにし、ある者を殺し、ある者を石で打ち殺してしまいました。それが、イスラエル民族の歴史でした。そして、最後に遣わされた神の御子イエス様をも殺そうとしている。それが、あなたがたではないか。そう、祭司長やファリサイ人、当時の指導者たちに当てつけてお話になった。それが、このたとえ話ということです。

わたしの罪
では、キリストの教会につらなるわたしたちは、神の国と神の祝福を受け継ぎ、このたとえ話で言われている裁きは、ユダヤ人、イスラエル人のことと、人ごとのように考えてよいのでしょうか。ポイントは、指導者たちが、イエス様のたとえ話を聞いた時点で、それが自分たちに宛てて語られたたとえ話だと分からなかったということです。わたしたちも、人ごとのように思っていながら、その同じ罪を自分自身が犯しているということがあるのではないでしょうか。

要するにと言う資格をもつお方
このたとえ話、それは、要するにあなたがたのしていることはこういうことと、イエス様が当時の指導者たちに当てつけてお話になったたとえ話であるということでした。さらに、このたとえ話で語られている罪、それは、わたしの罪でもあるということでした。イエス様は、「要するに」あなたは罪人です、と言われるのに対して反発する思いが、わたしたちの内から出て来るかもしれません。でも、イエス様は、そう言うことのできる資格をもつお方なのです。それは、要するに「神の前では罪人」と宣言するわたしのために、十字架で命を献げて下さったお方だからです。

(前川隆一牧師)

 

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