ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。                         Ⅱコリント4章7節
 
 東方の博士たちの礼拝です。


元旦礼拝において、テサロニケ教会の「愛」について学びました。テサロニケのクリスたちの「愛」、それは、現実の生活の中で愛する愛でした。また、それは、主の赦しを受けて愛する「愛」でした。さらに、テサロニケのクリスチャンたちの「愛」、それは、普通に愛する愛でした。そのようなことを受けて、更に具体的に、主の愛を受けた者として愛する。それは、どのようなことなのでしょうか。

博士たち
そのヒントが、この博士たちの礼拝の中にあります。博士たち、彼らは、占星術師でした。占い師、それは、まことの神を信じるユダヤの社会では、いちばん罪深い存在とされた人々でした。その人々が、まことの神と出会い、礼拝した。そして、彼らは、自分の国へと帰って行った。それが、この物語でした。わたしたちも自分の罪ということを自覚して、主のみもとに来ました。そして、主を礼拝し、主からの赦しといのちに与り、それぞれの生活の場へともう一度遣わされて行く。それが、わたしたちの信仰生活です。

土の器
わたしたちは、善悪という基準では割り切ることのできない現実に直面します。そこで、「そこにいる」、「ともにいる」ということがわたしたちに求められるのです。わたしたちも、博士たちと同じ様に、主のみもとに行くようにと招かれています。そして、主を礼拝し、主からの赦しといのちに与り、それぞれの生活の場へともう一度遣わされて行くようにと召されています。そして、そこで出会う人々と、「そこにいる」、「ともにいる」ようにと召されているのです。それは、自分自身、土の器であるという自覚とともに、その器の中に、キリストという宝を持っているというその自覚によって、そのように歩むことができるのです(Ⅱコリント4章7節)。